なぜ中国は不在だったか?平和条約の盲点と緊迫する台湾海峡の深層
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中国抜きの講和が成立した直後、日本は過酷な外交的踏み絵を踏まされることになった。当時の首相・吉田茂は、経済復興のために共産党政権下の大陸市場との通商パイプを維持したいという思惑を水面下で抱いていた。
だが、米国の圧力はそれを許さなかった。ジョン・フォスター・ダレスは吉田に対し、台湾の国民党政府と講和を結ばなければ、米上院はサンフランシスコ平和条約の批准を拒否すると事実上の最後通告を突きつけた。主権回復を最優先課題としていた吉田は妥協を余儀なくされ、1951年末にダレス宛ての書簡、いわゆる「吉田書簡」を送付。台湾の中華民国政府と国交を結ぶ方針を明言した。
これを受けて1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効とまったく同日に調印されたのが日華平和条約である。蔣介石率いる台湾政権との単独講和は、日本を完全に西側陣営へ固定化させ、結果として北京との公式な国交正常化を1972年まで遅らせる決定的な要因となった。