二・二六事件をわかりやすく解説!青年将校の動機と日本の運命
二・二六事件をわかりやすく解説!青年将校の動機と日本の運命の詳細解説をお届けします。専門的な知識が詰まっています。
反乱将校たちの最大の誤算は、「自らが最も忠誠を誓っていたはずの昭和天皇の反応」を完全に見誤っていたことでした。
青年将校たちは、決起趣意書を提出すれば天皇が自らの忠誠を理解し、「昭和維新」を追認してくれると信じ切っていました。しかし、忠臣たちを無残に殺害された昭和天皇の激怒は苛烈を極めました。当時の側近日記や公式記録によると、天皇は陸軍首脳部が情勢を静観し躊躇する姿に対し、次のように厳命したと記されています。
「朕が最も信頼せる重臣を悉く斃すは、真綿にて朕の首を締むるに等しき行為なり。陸軍が躊躇するならば、朕自ら近衛師団を率いてこれが鎮圧に当たらん」
2月27日、政府は東京に戒厳令を敷行。当初は反乱部隊に同情的な態度を見せていた陸軍上層部も、天皇の明確な「反乱軍(賊軍)認定」と断固たる鎮圧命令を受け、一転して武力鎮圧へと方針を固めました。
2月29日、陸軍は反乱部隊に向けてアドバルーンを掲げ、ラジオやビラで有名な帰順放送を実施します。
「今からでも遅くないから原隊へ帰れ。抵抗する者は逆賊として射殺する。お前たちの父母兄弟は国賊となるのを泣いて見ているぞ」
天皇の命に背く「逆賊」の烙印を押された下士官・兵たちは次々と武装解除に応じ、反乱部隊はわずか4日間で完全に瓦解しました。野中四郎大尉ら一部の首謀者は自決し、安藤輝三、栗原安秀ら残る将校たちは拘束。特設軍法会議において弁護人なし・非公開・一審制という異例の裁判が行われ、北一輝を含む関係者19名に死刑判決が下され、速やかに銃殺刑が執行されました。