得月院の知られざる真相|毛利と京極家を結んだ正室の生涯
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得月院の生涯で最大の試練となったのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いです。この戦いにおいて、実家の養父・毛利輝元は西軍の盟主(総大将)として大坂城に入城し、夫の京極高知は徳川家康に従って東軍の主力として岐阜城攻めや本戦で目覚ましい軍功を挙げました。
当時の慣例として、敵対勢力となった実家を持つ妻は離縁されるか、人質として処罰されるリスクを常に孕んでいました。大坂屋敷に残された武家女性の多くが過酷な運命を辿る中、得月院が京極家において正室の座を追われることなく、戦後も重きをなし続けた事実には特筆すべき背景があります。
当時の公家日記や大名間の記録によると、高知は妻の処遇に関して冷静に対処し、毛利家側との私的対立を持ち込まない姿勢を貫きました。得月院自身もまた、大坂の動揺や東西両陣営の謀略が渦巻く中で沈着に行動し、京極家の「奥」の秩序を守り抜きました。この冷静な立ち振る舞いが、戦後に丹後一国を与えられた京極家と、防長2カ国に減封された毛利家との間の、水面下の緊張緩和にも寄与したと考えられています。