咳をしても一人の本当の意味とは?尾崎放哉が小豆島で選んだ孤独の真相

咳をしても一人の本当の意味とは?尾崎放哉が小豆島で選んだ孤独の真相の疑問点について、専門知識を基に徹底解説します。

尾崎放哉(本名・尾崎秀雄)の生涯は、絵に描いたような栄光からの急降下でした。1885(明治18)年、鳥取県鳥取市の法官の家に生まれた放哉は、第一高等学校(一高)を経て東京帝国大学法科大学政治学科を卒業します。同期には政財界の中枢を担う俊英が揃い、放哉自身も東洋生命保険(現在の朝日生命などの源流)に入社。大阪支店次長や契約課長を歴任し、当時の平均給与の数倍を稼ぎ出すエリートビジネスマンとして順風満帆のスタートを切りました。

しかし、その内面には抜き差しならない空虚と病的なプライドが巣食っていました。極度のアルコール依存症に陥った放哉は、職場の宴席で上司や同僚に暴言を吐き、奇行を繰り返します。満鉄への転身や朝鮮火災海上保険の支配人就任など、知人の厚意で幾度も再起のチャンスを与えられながら、その都度酒によって職場を崩壊させ、解雇されました。

妻の馨(かおる)にも逃げられ、財産も社会的地位も完全に喪失した放哉は、京都の一燈園(宗教的共同体)に身を寄せます。しかし共同生活の規律にすら耐えられず、知恩院の塔頭・常称院、福井県小浜の常高寺、神戸の須磨寺など、寺院の堂守を転々としながら居場所を失い続けました。行く先々で酒を無心し、支援者を罵倒しては放逐される――。自己愛の肥大と社会的無能の間で自縄自縛に陥った放哉に、最後の救いの手を差し伸べたのが、東京帝国大学時代からの恩師であり自由律俳句誌『層雲』を主宰していた荻原井泉水でした。

1925(大正14)年8月、井泉水や支援者の尽力により、放哉は香川県小豆島霊場第五十八番札所西光寺の奥の院、「南郷庵(みぞおあん)」の庵主として送り込まれます。俗世のしがらみを断ち切り、句作に没頭するための終の棲家。しかし、その時すでに放哉の身体は進行性の結核に蝕まれていました。

伊藤 翔太

伊藤 翔太

フード&トラベルライター

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。

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