大日本帝国憲法の内容を徹底解剖!日本国憲法との違いと統帥権の真相
話題沸騰中の 大日本帝国憲法の内容を徹底解剖!日本国憲法との違いと統帥権の真相について、主要な情報を分かりやすく掲載しています。
大日本帝国憲法が規定した政治制度の最大の特徴は、権力の分散と相互抑制の複雑さにありました。国家権力が一箇所に集中しないよう設計された結果、政治の現場では常に激しい主権争奪戦が繰り広げられていたのです。
まず、立法を担う帝国議会は「貴族院」と「衆議院」の二院制を採用していました。衆議院が公選議員によって構成されたのに対し、貴族院は皇族・華族、あるいは天皇から特別に任命された勅選議員によって占められていました。両院は法律案や予算案に対してほぼ対等の権限を持っていたため、民意を反映した法案が衆議院を通過しても、保守的な貴族院によって葬り去られる事態が頻発しました。初期の制限選挙下(1890年第1回総選挙)では、有権者は「直接国税15円以上を納める25歳以上の男子」に限られ、有権者数はわずか約45万人(全人口の約1.13%)に過ぎませんでした。1925年の普通選挙法成立によって有権者は約1,240万人(全人口の約20%)へと跳ね上がりますが、議会の足かせは依然として強固でした。
さらに政府・議会の上に君臨したのが、天皇の最高諮問機関である枢密院(すうみついん)です。憲法起草作業と並行して1888年に創設され、初代議長には伊藤博文自らが就任しました。枢密院は憲法解釈、条約の批准、緊急勅令の審査などを一手に握り、民意から完全に隔絶された「超然的長老集団」として機能しました。
当時の政治家たちの手記や日誌には、この多頭政治に苦悩した生々しい告白が残されています。たとえば大正デモクラシー期に本格的政党内閣を樹立した「平民宰相」原敬は、自らの日記(『原敬日記』)の中で、民意を背負った内閣の施策が枢密院や山県有朋ら元老勢力によってことごとく骨抜きにされる苛立ちを幾度となく吐露しています。内閣総理大臣ですら行政各部を完全に掌握できる権限はなく、各大臣が個別に対等な立場で天皇を補佐する「各個輔弼」であったため、閣内不一致が起きれば即座に内閣総辞職に追い込まれる極めて不安定な構造を抱えていたのです。