大隈重信は何をした人?早稲田創設と右脚切断の真相、波乱の生涯を徹底解説

大隈重信は何をした人?早稲田創設と右脚切断の真相、波乱の生涯を徹底解説の真相について、分かりやすい解説を取りまとめてご紹介します。

大隈重信の生涯における最大のドラマは、1881年(明治14年)に勃発した「明治十四年の政変」です。当時、新政府内で憲法制定の議論が進むなか、伊藤博文らは君主権が強固なドイツ(プロイセン)型憲法を段階的に整備しようと考えていました。これに対し大隈は、イギリス型の議院内閣制を採用し、直ちに国会を開設すべきだとする急進的な意見書を提出します。

さらに北海道開拓使の官有物払下げ事件における汚職疑惑を批判したことで、伊藤ら薩長閥から「政府の秘密を外部に漏らした危険人物」として排除され、大隈は一撃で権力の中枢から追放されました。

しかし、大隈は絶望して隠遁することはありませんでした。下野した大隈が下した決断こそが、「野党政党(立憲改進党)の結成」と「教育機関(東京専門学校)の創設」だったのです。

大隈が東京専門学校(現・早稲田大学)を創設した最大の理由は、「官立大学(東京帝国大学など)に頼らない、政府の顔色をうかがわない独立した言論人・指導者を育てること」にありました。大隈は、国家の真の近代化は政府の号令だけで達成されるものではなく、批判精神と自由な知性を持った民間人が育って初めて成立すると確信していたのです。

校旨として掲げられた「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」は、まさに藩閥権力に対する痛烈な宣戦布告でした。開校当初は「謀反人の学校」と蔑まれ、警察の監視下に置かれながらも、政治経済や法律を学ぶ気概ある若者が全国から早稲田の地に集まることとなりました。

鈴木 陽菜

鈴木 陽菜

テックライター兼ウェブディレクター

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