高橋是清とは何をした人か?奴隷から首相、恐慌救済と暗殺の真相
高橋是清とは何をした人か?奴隷から首相、恐慌救済と暗殺の真相についての真相をお届けします。
高橋是清という人物の根底にあるのは、およそ一国の指導者とは思えないほどの規格外な「挫折と再生」の連続です。1854年(安政元年)、幕府の御用絵師・川村庄右衛門の子として私生児同然に生まれ、生後間もなく仙台藩の足軽・高橋覚治の養子に出されました。幕末の動乱期、学問の才能を見込まれた是清は、わずか13歳で藩の留学生としてアメリカ・サンフランシスコへ渡航します。
しかし、渡航先で待っていたのは信じがたい裏切りでした。現地で世話を頼まれた知人から英語の契約書に署名させられた結果、身元引受人によって年季奉公契約という名の「奴隷」として買い取られてしまったのです。自著『高橋是清自伝』において、彼は「朝から晩まで他人の家の雑役をさせられ、給料も一切支払われず、逃げ出す自由もなかった」と当時の過酷な境遇を赤裸々に告白しています。異国の地で人権を奪われながらも、彼は持ち前のバイタリティと機転で勝海舟ら留学生仲間の支援を取り付け、1868年に奇跡的に日本へ帰国を果たしました。
帰国後も、文部省への出仕、官立学校の英語教師、芸妓狂いによる浪人生活、さらにはペルーでの銀山開発詐欺に巻き込まれて全財産を失うなど、その経歴は波乱に満ちていました。しかし、特許局の初代局長として日本の知財基盤を築き上げた手腕を評価され、日本銀行に入行。日露戦争(1904〜1905年)では日銀副総裁としてロンドンやニューヨークに飛び、巨額の戦費を調達するための外債発行を成功させ、国家崩壊の危機を水際で防ぎました。
この功績によって揺るぎない国際的信認を獲得した是清は、政界へと進出。立憲政友会総裁を経て、1921年には原敬暗殺の直後を受けて第20代内閣総理大臣に就任しました。どん底の奴隷身分から総理大臣にまで上り詰めた立志伝は、近代日本史において唯一無二の物語として語り継がれています。