シュガーベイブのメンバー変遷と現在!なぜ解散?山下達郎らの脱退劇と真相
シュガーベイブのメンバー変遷と現在!なぜ解散?山下達郎らの脱退劇と真相についての疑問解決ガイドをお届けします。
1976年3月31日および4月1日、東京・荻窪ロフトで行われたライブをもって、シュガー・ベイブはその活動にピリオドを打ちました。なぜこれほど豊かな才能を擁しながら、バンドはわずか3年という短期間で解散に至ったのでしょうか。その真相を紐解くと、当時のライブハウスの過酷な実態と、日本の音楽市場が抱えていた構造的障壁が浮かび上がってきます。
「帰れ!」の罵声とビール瓶――早すぎた洗練への拒絶反応
当時の日本の音楽シーンは、四畳半フォークや政治的なメッセージ性を帯びたメッセージフォーク、あるいは泥臭いブルースロックが絶対的な覇権を握っていました。歌詞の文学性や心情の吐露が至上命題とされていた時代に、シュガー・ベイブが提示した「分数和音(テンションコード)」や「フラット5th、シャープ9th」を多用した洗練されたコードプログレッション、そして英語的なグルーヴを持つ緻密なコーラスは、多くの聴衆にとって「意味不明な音楽」と映ったのです。
山下達郎自身、後年のインタビューやラジオ番組『サンデー・ソングブック』等で「ライブハウスに出演すると、客から『日本語で歌え!』『意味がわからない、帰れ!』と罵声を浴びせられ、ステージにビール瓶が転がってきたこともあった」と当時の過酷なアウェー感を告白しています。時代の感性があまりにも彼らの音楽性に追いついていませんでした。
リズム隊の脱退劇と商業的な限界
ライブ動員は伸び悩み、経済的困窮もバンドを直撃します。演奏要求が極めてシビアだった山下の完璧主義的な音作りに対し、初代ベーシストの鰐川己久男が脱退。後任に寺尾次郎を迎えて体制を立て直すも、1975年末にはサウンドの要だったドラムの野口明彦が、自身の志向するアメリカン・ルーツロックに近いセンチメンタル・シティ・ロマンスへ移籍するために脱退します。
急遽、京都の名門ロックバンド「村八分」で叩いていた上原裕をドラマーに迎えたものの、頻繁なメンバー交代とリハーサルの負担は限界に達していました。商業的な成功も見込めず、借金と過密なスケジュールの中で、メンバーそれぞれの精神的摩耗は避けられない状況だったのです。