織田家の家系図と子孫の真相|本能寺を越え現代に生きる信長の血統
今注目を集めている 織田家の家系図と子孫の真相|本能寺を越え現代に生きる信長の血統について、多角的な視点を分かりやすく掲載しています。
織田信長には、正室・濃姫(帰蝶)との間に公認された男子がいなかったとされますが、側室たちとの間に10人以上の男子と十数人の女子をもうけていました。本能寺の変において、信長とともに二条新御所で討ち死にした長男・織田信忠が後継者と定められていたため、この瞬間に織田政権の根幹は大きく揺らぐことになります。
信忠の嫡男であった三法師(のちの織田秀信)は、清洲会議を経て織田家の名目上の後継者に擁立され、美濃国岐阜城13万石を領しました。しかし、1600年の関ヶ原の戦いで西軍に与したため、東軍の福島正則や池田輝政らに攻め立てられて落城。改易処分となって高野山へ追放され、わずか26歳で病没しました。これにより、織田信忠直系子孫による大名家としての支配権は途絶えることになります。一部の伝承では秀信の子が市井に逃れたとも語られますが、公的な大名家系図としての嫡流はこの地で幕を閉じました。
その一方で、信長の血脈を強かに近世へ運んだのが、次男の織田信雄(のぶかつ)です。愚鈍と評されることも多い信雄ですが、秀吉と家康の間を巧みに泳ぎ回り、幾度もの改易や配流の危機を乗り越えました。最終的には大坂の陣前後に家康から大和国宇陀松山や上野国小幡などに領地を与えられ、約5万石を誇る大名として復帰を果たしたのです。
三男の織田信孝は柴田勝家と結んで秀吉に対抗した末に自刃へと追い込まれましたが、信雄の系統が生き残ったことによって、織田信長直系血統は大名貴族として江戸時代、そして現代へと確実に繋がることになりました。