戦国一の美女だしの生涯!荒木村重の妻はなぜ見捨てられ散ったか
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天正7年11月、有岡城はついに開城。信長は村重に対し「尼崎城と花隈城を明け渡せば、妻子や城内の人質の命は助ける」という条件を提示しました。しかし村重はこの要求を拒否し、徹底抗戦を継続します。この頑迷な態度に激怒した信長は、見せしめとして前代未聞の大量処刑を命じました。
同年12月16日、だしをはじめとする村重の妻子・重臣の妻たち36名が、京都の六条河原へと引き出されました。だしは死装束として白綾の小袖を身にまとい、乱れることなく堂々たる足取りで刑場へ進んだと記録されています。享年21歳前後とされる若さでした。
処刑に際し、だしが詠んだ辞世の句が今に伝わっています。
「きゆる身は 惜しからねども つれなきは 心のおける 契りなりけり」
(露のように消えゆく我が身は惜しくはありません。ただ心残りで無情に思えるのは、来世まで誓い合ったはずの夫との現世の縁の儚さです)
この句を詠み終えただしは、従容として首を差し出し、太刀の一撃で散りました。その毅然とした最期は、集まった都の群衆や処刑を担当した織田方の武士たちすらも涙させたといいます。信長はこの後、残る女房衆や家臣ら数百名を市中引き回しの上、尼崎近郊で焼き殺すなど、合計600名以上を虐殺しました。