向田邦子『字のない葉書』父が号泣した理由とあらすじの真相を徹底解剖
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読者の誰もが強い衝撃を受けるのが、家庭内で絶対的な権力者として恐れられていた父親の豹変ぶりです。物語の前半で描かれる父親は、普段は短気で威張り散らし、食事の膳が気に入らなければひっくり返し、家族に対して理不尽なまでの厳格さを貫く典型的な昭和の家父長です。その父親がなぜ、家族の手前も外聞も忘れ、靴も履かずに土間へ転がり落ちるようにして泣き崩れたのでしょうか。
この父親の心理は、現代の家族心理学における「感情の防衛機制と抑圧の決壊」として論理的に説明がつきます。父親は軍国主義体制の戦時下において、「家長たるもの、いかなる悲惨な状況でも動揺を見せてはならない」という強烈な社会的役割規範(ジェンダーロール)に縛られていました。幼い娘を危険な疎開先へ追いやらなければならない無力感や苦悩を、父親は日頃の威厳や癇癪という分厚い鎧で覆い隠し、必死に自己を保っていたのです。
その兆候は、妹が出発する前夜にすでに現れていました。父親は自ら幼い妹をお風呂に入れ、丁寧に体を洗い、縁側に座らせて普段は絶対にしないような優しい手つきで靴下を履かせました。そのとき、父の目から大粒の涙がポロポロと畳に落ちていた光景を、作者である向田邦子は鋭く目撃しています。
そして迎えた再会の瞬間、目に入ったのは栄養失調で変わり果て、命の灯火が消えかけている愛娘の姿でした。「自分が甲府へ追いやったせいで、この子は死にかけていた」「父親でありながら、幼い我が子を理不尽な飢えと病魔から守ることができなかった」という激しい自責の念と罪悪感、そして「それでも生きて帰ってきてくれた」という爆発的な安堵感が同時に押し寄せました。その結果、長年張り巡らせていた威厳という防衛の鎧が一瞬で砕け散り、父親としての剥き出しの愛情が慟哭となって溢れ出たのです。