昭和映画史のタブー「大日映画」の真相!大映・日活提携の崩壊劇
昭和映画史のタブー「大日映画」の真相!大映・日活提携の崩壊劇の概要と注目ポイントをわかりやすく整理しました。
1958年に年間11億2,745万人を記録した日本の映画館入場者数は、テレビの急速な普及と多様なレジャーの台頭により、1970年には約2億5,000万人へと激減していました。入場人員が4分の1以下に激減するなかで、五社協定と呼ばれるブロックチェーン配給体制を維持することは、各社にとって耐え難い固定費負担となっていたのです。
とくに深刻な経営危機に陥っていたのが大映と日活でした。大映を率いたのは「ラッパ」の異名をとる政商・永田雅一。一方の日活は、不動産業を軸に合理化を進めようとする実業家・堀久作が舵取りを担っていました。水と油ともいえる経営思想を持つ両雄を引き合わせたのは、莫大な融資を行っていた主力銀行からの強烈な再建圧力でした。
製作スタジオはそれぞれ維持しつつ、営業・配給ルートと映画館チェーンを一本化することで、配給経費の大幅削減を狙う――。1970年4月、資本金1億円(出資比率50対50)で設立された「ダイニチ映配株式会社」は、業界内外に凄まじい激震を走らせました。ライバル同士の電撃提携は、美名こそ「業界合理化の先駆」と称されたものの、実態は瀕死の重症患者同士が抱き合って倒れ込むような危険な賭けだったのです。