豊臣秀吉の性格は冷酷か人たらしか?晩年の豹変と狂気の真相を解明
豊臣秀吉の性格は冷酷か人たらしか?晩年の豹変と狂気の真相を解明についての最新情報をお届けします。
秀吉の性格の暗部を象徴するのが、戦歴の中に刻まれた凄惨な包囲戦と、晩年の大規模粛清です。
天正8年(1580年)の三木合戦における「三木の干殺し」、そして翌天正9年(1581年)の因幡鳥取城攻めにおける「鳥取の渇殺し」は、日本攻城戦史上でも類を見ない地獄絵図を生み出しました。秀吉はあらかじめ周辺の米を相場の数倍の高値で買い占めて城内の兵糧を枯渇させ、城兵のみならず近隣の農民数千人を城内に追い込んで兵糧消費を加速させました。
結果として鳥取城内では草木や牛馬はおろか、餓死した者の肉を奪い合って食すという狂気の事態に至ります。秀吉は味方の損害を最小限に抑えるため、冷徹な計算のもとで相手を極限状態へ追い込みました。合戦の華々しさの裏で、ここまで機械的に人の尊厳を削ぎ落とせる冷酷さは、信長の電撃戦とは質の異なる恐怖を与えます。
そして秀吉の残虐性が最も歪んだ形で噴出したのが、文禄4年(1595年)の「豊臣秀次処刑事件」です。
関白の地位を譲っていた甥の秀次に謀反の疑いをかけ、高野山へ追放した末に切腹を命じた秀吉。それだけに留まらず、京都・三条河原において秀次の妻妾、幼い子どもたちを含む一族39名を白昼堂々、見せしめとして公開処刑しました。処刑台の前に秀次の首を据え、家族たちがその首を見せつけられながら順番に斬首されていく様は、当時の公家たちの日記(山科言経の『言経卿記』など)にも「言語道断の悪行」として深い戦慄とともに記録されています。
なぜ秀吉は、かつて自らの後継者として立てた甥とその家族に対して、これほど凄惨な処刑を強行したのか。その背景には、実子・秀頼の誕生によって秀次の存在が邪魔になったという権力闘争に加え、晩年の秀吉の精神の深刻な変容がありました。