なぜ鎌倉幕府は1185年になった?「いい国」が教科書から消えた衝撃の真相
なぜ鎌倉幕府は1185年になった?「いい国」が教科書から消えた衝撃の真相の重要なポイントについて、分かりやすい解説を基に徹底解説します。
1185年(元暦2年/文治元年)という年は、日本の中世史において類を見ない濃密な軍事作戦と政治工作が連続した1年でした。同年3月、長門国壇ノ浦で繰り広げられた壇ノ浦の戦いによって、栄華を極めた平氏一門は滅亡。わずか8歳の安徳天皇が入水し、三種の神器のうち草薙剣が海底へと沈むという悲劇的な結末を迎えました。
平氏政権を軍事的に粉砕した立役者こそ、頼朝の異母弟である源義経でした。しかし、この劇的な勝利が兄弟の血塗られた対立の幕開けとなります。義経が頼朝の許可を得ずに朝廷から検非違使の任官を受けたことや、類まれな軍才への警戒から、頼朝は義経への敵意を急速に強めていきました。
同年10月、頼朝の追討を察知した義経は、後白河法皇に迫って「頼朝追討の院宣」を出させる事態に発展します。しかし、鎌倉武士団をがっちりと束ねる頼朝の威圧的な軍事力を前に、義経に同調する勢力は現れませんでした。頼朝はこの危機を逆手に取り、義経追討を口実として、姻戚の北条時政に大軍を率いさせて上洛させます。
京都を軍事的に封鎖した頼朝側は、後白河法皇に対して過酷な要求を突きつけました。それが11月28日に下された「文治の勅許」です。当時の関白・九条兼実は、その日記『玉葉』の中で「頼朝の使者が諸国に守護を置き、荘園・公領に地頭を補任することを朝廷に承諾させた」と記し、貴族社会が受けた底知れぬ恐怖を書き留めています。義経という内乱の芽を口実に、朝廷の行政権を根こそぎ奪い取った政治的勝利の記録がそこに刻まれています。