長谷川等伯の真実|国宝松林図屏風の謎と狩野派との死闘、愛息急死の哀傷
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長谷川等伯は天文8年(1539年)、能登国・七尾(現在の石川県七尾市)で戦国大名・畠山氏の家臣である奥村文之丞宗道の子として生を受けました。のちに染物業を営む長谷川宗清の養子となり、絵師としての第一歩を踏み出します。初期は「長谷川信春(のぶはる)」と号し、主に日蓮宗関係の仏画や肖像画を手掛け、その卓越した描写力はすでに北陸の地で確固たる評判を得ていました。
しかし、30代前半頃に養父母を亡くし、主家である畠山氏の内紛による没落などを契機に、等伯は妻子を連れて京へ上洛を決意します。当時の京都画壇は、幕府や権力者と強固に結びついた狩野派の独壇場。三十路を過ぎた「能登の田舎絵師」が天下の画壇へ単身切り込むことは、無謀とも言える挑戦でした。
京都に出た等伯は、自らの正統性を主張するために「雪舟五代」(画聖・雪舟の正統な後継者)を名乗り、日蓮宗の本山である京都の妙蓮寺などを拠点に人脈を構築。力強い筆致の仏画や肖像画で着実に足場を固め、やがて桃山文化の中心へと躍り出ることになります。