日本三大怨霊の真相と祟りの歴史|菅原道真・平将門・崇徳院を徹底解剖
日本三大怨霊の真相と祟りの歴史|菅原道真・平将門・崇徳院を徹底解剖の要点を分かりやすくまとめてご紹介します。
歴史の教科書に刻まれた表舞台の記録と、伝承として残る裏の怨霊史。それぞれが背負った過酷な運命を振り返ります。
1. 天神信仰へと昇華した文聖:菅原道真
右大臣にまで登り詰めながら、藤原氏の謀略(昌泰の変)により大宰府へ左遷された菅原道真。現地での悲惨な生活の末に憤死した道真の怨念は、平安京を恐怖のどん底に陥れました。930年、朝議中の清涼殿に落雷が直撃し、道真追放を主導した藤原清貫らが即死。これを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、わずか3カ月後に崩御しました。
朝廷はこの猛威を鎮めるため、太宰府天満宮 怨霊鎮魂の社を建立し、道真の官位を復権させ最高位の正一位太政大臣を追贈。火雷神と結びついた怨霊は、やがて菅原道真 天神信仰として昇華し、現代では「学問・文化の至神」として全国で崇敬を集めています。
2. 関東の覇王から都市伝説の主へ:平将門
平安中期、朝廷の圧政に抗して自ら「新皇」を名乗り、東国独立を企図した平将門(承平・天慶の乱)。討死後、京都の七条河原に晒された首級が「胴体を求めて夜な夜な光を放ち、東国へ飛び去った」という伝説は有名です。
首が落ちたとされる地が、現在の東京都千代田区大手町にある「平将門の首塚(将門塚)」です。江戸時代には徳川家康により江戸総鎮守として手厚く祀られ、神田明神 御祭神として迎えられました。しかし後述するように、近代以降も首塚周辺での開発に際して数々の異変が報告され、畏怖され続けています。
3. 日本最強の大魔縁となった悲運の帝:崇徳院
皇位継承争いと摂関家の内紛が絡み合った1156年の「保元の乱」に敗れ、讃岐国へ流刑となった崇徳上皇。現地で血書による五部大乗経を書き上げ、京都の寺院への奉納を朝廷に願い出ましたが、「呪詛が込められている」と疑われ拒絶されました。
激怒した上皇は舌を噛み切り、その血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」と誓約書に記したと『保元物語』は伝えます。死後、朝廷を揺るがす変乱が続き、武士が台頭して貴族政治が崩壊。朝廷が最も恐れた怨霊として、日本三大怨霊 最強ランキングでも筆頭に挙げられる存在です。