6代目桂文枝の現在に迫る!新婚さん降板の真相と襲名理由の全貌
6代目桂文枝の現在に迫る!新婚さん降板の真相と襲名理由の全貌の注目ポイントを分かりやすくまとめてご紹介します。
六代目桂文枝の歩みは、昭和・平成・令和の演芸史そのものです。関西大学在学中にラジオの深夜放送で頭角を現し、1966年に五代目桂文枝に入門。「桂三枝」の高座名でプロの道を歩み始めました。当時の落語界では異例とも言える若者からの圧倒的な支持を集め、『ヤングおー!おー!』や『パンチDEデート』といった伝説的番組で司会を務め、吉本興業の躍進を牽引するトップスターへと駆け上がりました。
全国区の人気タレントとして栄華を極める一方で、上方落語の伝統継承という重責から目を背けることはありませんでした。戦後、上方落語は演者数が激減し、絶滅の危機に瀕していました。五代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、三代目桂春団治、そして師匠である五代目桂文枝という「上方落語の四天王」が復興の礎を築く中、三枝はその熱意を受け継ぎ、2003年には上方落語協会会長に就任。長年の悲願であった定席寄席「天満天神繁昌亭」の開場(2006年)を陣頭指揮し、上方落語界の再興という歴史的偉業を成し遂げました。
そして2012年7月16日、自身の69歳の誕生日に、45年間名乗り続けた「桂三枝」の看板を後進に託す思いで、師の名跡である「六代目桂文枝」を襲名しました。この桂三枝 襲名理由の根底にあったのは、名声への執着ではなく、上方落語の看板を自らの手でより高みへ引き上げるという強い責任感でした。師匠である五代目文枝が2005年に他界した際、上方落語協会会長として組織を率いていた彼は、伝統と格式の象徴である大名跡を空位にしておくことは上方演芸界の衰退につながると危惧したのです。「三枝」という巨大な個人ブランドを脱ぎ捨て、「六代目文枝」という重厚な看板を背負う選択は、落語家人生の最終章を伝統の発展に捧げるという不退転の覚悟の表れでした。