史記『鴻門の会』徹底解説!項羽が劉邦を逃した真相と心理戦の全貌
話題沸騰中の 史記『鴻門の会』徹底解説!項羽が劉邦を逃した真相と心理戦の全貌について、多角的な視点をご紹介しています。
読者が抱く最大の疑問は、「なぜ項羽は目の前にいた劉邦を討たなかったのか」という点に尽きます。范増は酒宴の最中、腰に下げていた玉玦(ぎょくけつ:環状の玉の一部が切れた装飾品。「決断せよ」の暗号)を三度も掲げて合図を送りました。しかし項羽はただ黙然としてそれに応じませんでした。
項羽が劉邦を逃した背景には、3つの決定的な理由が存在します。
第一に、「劉邦による完璧な道化の演技」です。鴻門に到着した劉邦は、開口一番こう語りました。「臣(私)は将軍とともに秦を攻めましたが、図らずも先に関中に入ることになってしまいました。小人の讒言(ざんげん)によって将軍との間に溝ができたのは誠に遺憾です」。劉邦は自らを「臣」と呼び、項羽を「将軍」と持ち上げ、徹底してへりくだったのです。楚の名門軍事貴族としての誇りに満ちた26歳の若武者・項羽にとって、年上の劉邦(当時50歳前後)が平伏して命乞いをする姿は、自尊心をこれ以上なく満たすものでした。
第二に、「酒宴で降伏者を騙し討ちにすることへの貴族的嫌悪感」です。春秋戦国時代以来の貴族的な「武人の礼」を重んじた項羽にとって、正式に謝罪に来た客を酒の席で暗殺する行為は、卑劣極まりない田舎者のやり口に見えました。項羽は「戦場で叩き潰すこと」こそが武士道であり、范増の策謀を「姑息な小細工」として軽蔑していたフシがあります。
第三に、「叔父・項伯の世論誘導と心理操作」です。前夜、項伯は項羽にこう吹き込んでいました。「沛公(劉邦)が先に関中を破っていなければ、どうして将軍がやすやすと入城できただろうか。功績のある者を討つのは不義である」。この「不義」という言葉が、自らを正義の覇王と信じ込みたかった項羽の足を完全に縛ったのです。
結果として、范増の怒りは頂点に達しました。劉邦が脱出し、張良から贈られた玉斗(白玉の升)を項羽が満足げに受け取った横で、范増はそれを地面に叩きつけて剣で粉砕。「豎子(じゅし:青二才・愚か者)与に謀るに足らず! 項王の天下を奪う者は必ずや沛公ならん。我らは今に奴の捕虜となるだろう」と激昂しました。この予言は、わずか4年後に現実のものとなります。