東声会とは何だったのか?町井久之の興亡と2026年現在の東亜会を追う
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東声会が他の愚連隊組織と決定的に異なっていたのは、国家規模の政治力学に深く関与していた点です。その中心にいたのが、戦後最大の政財界フィクサーと呼ばれた児玉誉士夫でした。
児玉は町井の行動力と組織力に目をつけ、自らが構想する「東亜相互企業」の推進役や、反共運動の前衛部隊として重用しました。1965年の日韓基本条約締結に際しては、町井の持つ韓国政界(朴正煕政権中枢)との強固なパイプを活かし、水面下の安全確保や非公式ルートの交渉役として暗躍したことが当時の特番インタビューや関係者の回顧録でも証言されています。
一方、関西から全国展開を進めていた日本最大の暴力団・三代目山口組とも極めて密接な関係を築きました。山口組三代目組長・田岡一雄と町井久之は義兄弟の盃を交わし、東声会は山口組にとって「関東進出における最大の盟友かつ緩衝地帯」として機能したのです。
しかし、その強大すぎる影響力は警察当局の激しい警戒を招きました。1960年代半ばから展開された警察庁の「第1次頂上作戦」において、東声会は集中的な取り締まりの対象となります。組織幹部の相次ぐ逮捕と資金源の遮断に追い込まれた町井は、1966年(昭和41年)9月、日比谷公会堂で異例の解散宣言を行い、東声会の看板を公式に下ろすことを余儀なくされました。