平将門の乱の全貌|なぜ新皇を名乗り討たれたのか?怨霊伝説の真相を解く
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新皇を自称した将門の天下は、わずか2ヶ月足らずで幕を閉じました。平将門の乱の結末は、あまりに劇的で呆気ないものでした。
朝廷から追討令を受けたのは、父・国香を殺された怨恨を持つ平貞盛と、下野国随一の武勇を誇る豪族・藤原秀郷(俵藤太のモデル)でした。両者は機動力を活かして連合軍を結成し、将門の本拠地である下総国へと迫ります。
この時、将門軍には致命的な弱点が生じていました。新皇即位に伴う東国平定を終えた安心感と、春の農繁期が重なったため、召集していた兵の大半を郷里へ帰していたのです。手元に残っていたのはわずか400騎足らず。対する貞盛・秀郷軍は4,000名の軍勢を率いていました。
天慶3年(940年)2月14日、下総国猿島郡の「北山の合戦」(現在の茨城県坂東市付近)にて最後の激突が起きます。将門は寡兵ながら自ら陣頭に立って奮戦し、一時は追い風に乗って敵陣を崩しかけました。しかし、突然の突風によって風向きが逆転。馬を立て直そうとした瞬間、敵の放った流れ矢が将門の額を射抜き、東国の英雄は壮絶な戦死を遂げました。
討ち取られた将門の首級は平安京へと運ばれ、都の東市に晒されました。これが日本史上初の「獄門(さらし首)」の記録とされています。