新選組最強の男・永倉新八の真実|小樽の晩年と沖田・斎藤を超える剣

新選組最強の男・永倉新八の真実|小樽の晩年と沖田・斎藤を超える剣にまつわる興味深い視点を詳しく紐解きます。

明治維新後、永倉新八は旧幕府軍への追及を逃れるため、妻の実家である松前藩医・杉村家の籍に入り、杉村義衛(すぎむらよしえ)と改名しました。明治の世になってからの彼の足跡は、かつての凄腕刺客というイメージを覆すほどユニークで人間味に溢れています。

明治15年(1882年)からは、北海道・樺戸郡月形町にあった樺戸集治監の撃剣師範に就任。凶悪犯や旧士族の反乱囚が収監されていたこの過酷な刑務所で、看守たちに実戦仕込みの神道無念流を4年間にわたり指導しました。この時期に永倉が培った指導法と威厳は、北海道の近代警察・武道界の基礎を築くことになります。

樺戸を退官した後は、東京への一時帰還を経て、晩年は愛娘や孫が暮らす北海道小樽市(花園町)に落ち着きました。小樽での永倉は、近所の子どもたちに竹刀の振りを教えたり、草花を愛でたりする心優しい老人として親しまれました。とりわけ彼が熱中したのが、当時最新の娯楽であった「活動写真(映画)」です。

映画館へ足繁く通い、銀幕に映し出される映像を見つめては、孫たちに「文明の進歩とは誠に素晴らしいものだ。もし幕末にこれがあったら、近藤や土方の姿を映画に撮って皆に見せてやれたものを」と懐かしそうに語ったという逸話が残されています。

一方で、衰えぬ武勇伝も小樽の地に刻まれています。70歳を過ぎたある日、小樽の映画館で地元のヤクザや無頼漢に絡まれた際、永倉は一切慌てることなく、鋭い眼光とともに腹の底から一喝。その凄まじい気迫に圧倒された屈強な男たちが、一太刀も交えることなく一目散に逃げ出したというエピソードは、晩年まで錆びつくことのなかった達人の風格を物語っています。

小林 直樹

小林 直樹

トレンドリサーチャー

シンプルで洗練された住まいづくりとインテリアコーディネートのアイデアを提案しています。

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