応仁の乱の語呂合わせ決定版!1467年の覚え方と原因・勝敗を網羅
応仁の乱の語呂合わせ決定版!1467年の覚え方と原因・勝敗を網羅の基本情報から最新動向までを一挙に解説しました。
応仁の乱の構造が「わかりにくい」と言われる最大の理由は、複数の異なる対立軸が同時に絡み合った点にあります。教科書や参考書の内容を因果関係に沿って整理すると、根本原因は以下の2点に集約されます。
1. 将軍家の跡継ぎ争い(足利義視 vs 足利義尚)
室町幕府8代将軍・足利義政には長年男児が生まれず、政治への意欲を失っていた義政は、出家していた弟の足利義視を呼び戻して後継者に指名しました。ところがその直後、正室の日野富子が息子の足利義尚を出産。富子が我が子を将軍に据えようと画策したことで、義視派と義尚派の後継者争いが勃発しました。
2. 有力守護大名の覇権争い(細川勝元 vs 山名宗全)
当時の幕府内では、実力者である管領の細川勝元(東軍)と、四職筆頭格の山名宗全(西軍)が激しい権力闘争を繰り広げていました。さらに、有力守護である畠山氏や斯波氏の家督争いも重なり、各派閥が将軍家の対立に合流。日本中を二分する巨大軍事同盟の激突へと発展したのです。
- 東軍(細川勝元):将軍の弟・足利義視を擁立/兵力約16万(諸説あり)
- 西軍(山名宗全):将軍の実子・足利義尚を擁立/兵力約11万(諸説あり)