竹中半兵衛の墓はなぜ複数ある?三木・岐阜・京都の謎と死因の真相
竹中半兵衛の墓はなぜ複数ある?三木・岐阜・京都の謎と死因の真相の背景について、専門知識を基に徹底解説します。
竹中半兵衛を語る上で欠かせないのが、「両兵衛」と並び称された黒田官兵衛との深い友情です。天正6年(1578年)、織田信長に反旗を翻した荒木村重を説得するため、官兵衛は単身で有岡城(兵庫県伊丹市)へと乗り込みました。しかし説得は失敗し、官兵衛は城内の土牢に監禁されてしまいます。
連絡が途絶えたことで「官兵衛が裏切った」と激怒した信長は、秀吉に預けられていた官兵衛の嫡男・松寿丸(当時10歳、後の黒田長政)の即時処刑を命じました。主君・信長の命令は絶対であり、秀吉ですら逆らえない絶体絶命の危機でした。
このとき、自らの命を懸けて動いたのが半兵衛でした。半兵衛は表向き「命令通り松寿丸の首を刎ねた」と信長に偽りの報告を行い、密かに松寿丸を自らの本領である美濃の菩提山城下(岐阜県垂井町)へと連れ去り、家臣の屋敷に匿ったのです。
翌年、有岡城が陥落して救出された官兵衛は、変わり果てた姿になりながらも我が子の無事を知り、号泣して半兵衛に感謝したと伝えられます。しかしその時、半兵衛はすでに平井山の陣中で他界していました。直接礼を言うことすら叶わなかった官兵衛と、命を救われた松寿丸(長政)は、竹中家の家紋である「黒餅(こくへい)」を黒田家の家紋として譲り受けるほど、生涯にわたって竹中家への恩義を忘れませんでした。京都・栄摂院などの供養塔は、この命がけの友情の証拠として今に伝わっています。