『沈まぬ太陽』実話の真相と恩地元の現在|Jal確執と結末の裏側

『沈まぬ太陽』実話の真相と恩地元の現在|Jal確執と結末の裏側にまつわる役立つ知識を分かりやすく発信ます。

読者の胸を最も打つ主人公・恩地元(おんち はじめ)。会社への忠誠心を持ちながらも、安全運航と労働者の正当な権利を守るために立ち上がり、その結果として見せしめのような冷遇を受け続けたこの男には、小倉寛太郎(おぐら ひろたろう、1930年〜2002年)という実在のモデルが存在します。

東京大学法学部を卒業後、1953年に日本航空へ入社した小倉氏は、卓越した知性と統率力を買われて日本航空労働組合の委員長に就任しました。折しも航空事故が相次ぎ、劣悪な労働環境が安全を脅かしていた時代です。小倉氏は会社側と激しく対立し、1964年には経営陣を相手に戦後初となる運航停止ストライキを決行。賃上げだけでなく、乗務員の過密ダイヤ是正や安全基準の強化を勝ち取りました。

しかし、経営陣にとって小倉氏は許すべからざる「目の上のたんこぶ」でした。会社側が下した報復人事は想像を絶するものでした。労組委員長を退任した直後から、カラチ(パキスタン)、テヘラン(イラン)、そしてナイロビ(ケニア)へと、足掛け約10年間にわたり日本への帰任を許さない海外隔離人事が強行されたのです。当時の社内基準では海外駐在は最長3年程度と定められており、小倉氏の処遇がいかに異様な見せしめであったかが分かります。

過酷な流刑生活を耐え抜き、1985年の123便事故の後に新設された「遺族係」として遺族対応に奔走した小倉氏ですが、その後はどうなったのでしょうか。ファンが最も気にする恩地元のモデル・小倉寛太郎氏の晩年と現在について整理すると、以下の事実が浮かび上がります。

小倉氏はカネボウから招へいされた伊藤淳二会長(作中の国見正之会長のモデル)によって会長室長(作中では会長室部長)に抜擢され、腐敗した社内改革に乗り出しました。しかし、既得権益を守ろうとする古参幹部や政治家の猛反発に遭い、伊藤会長はわずか1年余りで退任に追い込まれます。小倉氏も再びアフリカ・東アフリカ支店へ事実上の再左遷となり、1990年にJALを定年退職しました。

退職後の小倉氏は日本にとどまらず、自身が左遷地として長く過ごし、心から愛したケニア・ナイロビへ移住。野生動物の生態調査や自然保護活動に身を捧げ、優れた写真家・アフリカ研究者・エッセイストとして数々の著書を発表しました。そして『沈まぬ太陽』の単行本が完結した3年後、2002年10月、膀胱がんのため72歳でこの世を去りました。病床にあっても会社に対する私怨を語ることはなく、「不条理に直面しても、自らの魂だけは売り渡してはならない」という言葉を残したと伝えられています。

渡辺 美咲

渡辺 美咲

ガジェット&アプライアンスライター

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。

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