原田左之助の死因と切腹の傷に迫る!馬賊生存説と新選組十番隊長の真相
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原田左之助は天保11年(1840年)、伊予松山藩(現在の愛媛県松山市)の中間(武家奉公人)の子として誕生しました。身分こそ低かったものの、幼少期から武術の才能を開花させ、江戸三大道場の一つで名高い種田宝蔵院流槍術を学び、見事に免許皆伝を授かっています。小太刀や打ち刀の接近戦が主流だった幕末において、間合いを制する槍の技術は圧倒的な威力を誇り、これが後の新選組での抜擢に直結しました。
江戸の試衛館で近藤勇、土方歳三、沖田総司、藤堂平助らと交友を深めた原田は、文久3年(1863年)の浪士組結成に参加し上洛。壬生浪士組の結成から初期の内部抗争である芹沢鴨暗殺、新選組の武名を天下に知らしめた池田屋事件、さらには御陵衛士を殲滅した油小路の変に至るまで、主要な重要任務の最前線には常に原田率いる十番隊の姿がありました。
慶応3年(1867年)に起きた坂本龍馬暗殺事件(近江屋事件)では、現場に原田の所有物とされる「下駄の鞘」が落ちていたことや、刺客が伊予弁(四国方言)を話していたという証言から、一時的に原田が実行犯と疑われる事態も発生しました。しかし、明治以降に元見廻組の今井信郎らが犯行を自供したことで、原田への嫌疑は完全に晴らされています。常に危険な最前線へ投入される切り込み隊長でありながら、部下への面倒見が極めて良く、隊内での人望は非常に厚いものがありました。