沈まぬ太陽のモデル小倉寛太郎の真実!Jalの闇と闘った男の半生
沈まぬ太陽のモデル小倉寛太郎の真実!Jalの闇と闘った男の半生の特集記事を解説します。最新トレンドが満載です。
組合委員長退任直後の1963年、小倉に下された辞令はパキスタン・カラチ支店への転勤だった。当時の航空業界において、本社中枢のキャリア社員が僻地支店へ異動し、何年も放置されることは事実上の追放を意味していた。
カラチからテヘラン、そしてケニアのナイロビへ。通常であれば2〜3年で本国へ呼び戻されるはずの海外赴任が、小倉の場合は10年以上に及んだ。赴任先での仕事は、本社の華やかな路線展開とは無縁の泥臭い渉外業務やチケットの手配。しかも、現地での生活環境は過酷を極め、家族を伴っての長期滞在は心身を極限まで削り取った。
「自分は会社から忘れ去られたのではないか」という孤独感。だが、小倉は腐らなかった。ナイロビの広大なサバンナを眺めながら、彼は現地の文化や動物生態系の研究に没頭し、スワヒリ語を習得。後にアフリカ研究者としても高く評価される知見を、この不条理な流刑生活のなかで独力で培っていったのである。理不尽な境遇に身を置きながらも、己の精神だけは決して組織に飼いならされない――その強靭な意志こそが、後に山崎豊子を惹きつける最大の要因となった。