千利休切腹の真相|秀吉との確執から最後の茶会まで徹底解剖
千利休切腹の真相|秀吉との確執から最後の茶会まで徹底解剖に関する深掘り解説を分かりやすく解説いたします。
天正19年2月13日、秀吉から堺への追放を命じられた利休は、淀川の船着き場から船出しました。このとき、処罰を恐れて誰もが見送りを躊躇する中、弟子の古田織部と細川忠興の2人だけが命がけで見送りに現れた逸話は有名です。
その後、京都の聚楽第屋敷へ呼び戻されて蟄居を命じられ、切腹の日が定められます。利休は自らの死期を悟り、最後の茶会を開いて親しい客を招きました。一服の茶を点て終えた後、自ら手にした茶碗を「天下一の道具を二度と他人の手に渡すまい」と打ち砕いたと伝えられています。
切腹の当日、利休の年齢は数えで70歳。見届け役として蒔田淡路守や長谷川宗仁らが屋敷を囲む中、利休は泰然自若として筆を執り、以下の辞世の句を残しました。
「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺」
(人生七十、力囲希咄。我がこの宝剣、祖仏ともに殺す)
「提る我得具足の一ツ太刀 今此時ぞ天に抛つ」
(ひっさぐる わが得具足の ひとつ太刀 いまこのときぞ 天になげうつ)
研ぎ澄まされた精神のまま自刃し、弟子でもあった介錯人の手によって生涯を閉じました。切腹後、利休の首は一条戻橋に晒され、その足元には大徳寺から引きずり下ろされた木像が踏みつけるように置かれるという、徹底した見せしめが行われました。