坂下門外の変とは?安藤信正襲撃の真相と桜田門外との違いを徹底解剖

坂下門外の変とは?安藤信正襲撃の真相と桜田門外との違いを徹底解剖に関する疑問や疑問点を徹底的にまとめました。詳細を読もうことができます。

襲撃者たちが掲げた大義名分は、幕府が進めていた公武合体政策に対する猛烈な反発と阻止でした。安政7年(1860年)の桜田門外の変で強権を振るった大老・井伊直弼が倒れた後、幕政の舵取りを引き継いだのが安藤信正と久世広周(下総関宿藩主)のコンビです。

当時、井伊による「安政の大獄」への反発と開国に伴うインフレ・社会不安によって、幕府の権威は地に落ちていました。そこで安藤らが打ち出した起死回生の策が、朝廷の権威を借りて幕府を補強する「公武合体」でした。その象徴的事業として画策されたのが、孝明天皇の妹である和宮(和宮親子内親王)を第14代将軍・徳川家茂の正室として迎える「和宮降嫁」です。

朝廷側は条約破棄と攘夷の実行を条件に降嫁を認めざるを得ない状況に追い込まれましたが、尊皇攘夷派の武士たちにとって、この政略結婚は「朝廷を脅迫して皇女を人質にとる暴挙」と映りました。幕府の独裁を延命させるための謀略であるという怒りが、水戸や長州をはじめとする過激派志士の間で爆発したのです。

さらに、安藤信正が横浜開港場における貿易統制策を推し進め、外国人居留地を事実上公認し続けたことも、「朝廷を軽視し異国に媚びを売る売国奴」という誤ったレッテル貼りを加速させました。暗殺者たちの討白書(斬奸状)には、和宮降嫁を進めた罪と、神州日本を夷狄に売り渡そうとした罪が厳しく糾弾されていました。

鈴木 陽菜

鈴木 陽菜

テックライター兼ウェブディレクター

暮らしを豊かにする便利アイテムや時短アイデアを中心に、実用的な情報をお届けします。

Share this article
Twitter Facebook Pinterest