上杉昇がWandsを去った真因とは|絶頂期の電撃脱退と現在地
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1991年、シングル「寂しさは秋の色」でデビューを飾ったWANDS 第1期。翌1992年に中山美穂とのコラボレーション楽曲「世界中の誰よりきっと」がメガヒットを記録すると、「時の扉」「もっと強く抱きしめたなら」「愛を語るより口づけをかわそう」とリリースする楽曲が立て続けにミリオンセラーを叩き出しました。名実ともにトップバンドへ駆け上がったWANDSでしたが、その華やかな成功の裏側で、ボーカル・上杉昇の胸中には拭い去れない違和感が蓄積していきました。
最大の要因となったのは、所属事務所であるビーイングの徹底した制作システムと、上杉自身のアーティストシップの衝突です。当時、ヒットメーカー・織田哲郎や栗林誠一郎らが手掛ける緻密に計算されたメロディアスな楽曲群は、時代が求める完璧なポップスでした。しかし、1990年代中盤のアメリカで巻き起こったニルヴァーナをはじめとするグランジ・ムーブメントに強い衝撃を受けた上杉は、より生々しく内省的でヘヴィなロックサウンドへと激しく傾倒していきます。
1994年にリリースされ、アニメ『SLAM DUNK』のエンディングテーマとして歴史的名曲となった「世界が終るまでは…」。この楽曲は上杉自身が作詞を手掛け、ハードなギターリフと切迫したボーカルが融合した傑作ですが、本人のインタビューや後年の回想録によれば、この時期すでに「求められるアイドル的ロックスター像」と「自らが鳴らしたい真のロック」との引き裂かれるようなギャップに苦悩していました。
1995年発表のアルバム『PIECE OF MY SOUL』では、上杉の志向が色濃く反映されたダークで重厚なグランジサウンドへとシフトし、オリコン1位を獲得します。しかし、会社側が求める商業的ポップ路線への回帰要請と妥協を許さない上杉の意志は平行線を辿り、1996年、活動休止を経て正式に脱退という道を選択しました。ヒットチャートの頂点にいながら、表現の魂を守るためにすべてを投げ打った電撃離脱でした。